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ざくろ色の止まり樹

いまある音楽を楽しむ。

若冲展の行列に思うこと。価値をみずから見いだせる人でありたい。

Jukachoju-zu Byobu (folding screen painting of trees, flowers, birds and animals) 樹花鳥獣図屏風 by Ito Jakuchu

上野の東京都美術館で明日まで開催中の「若冲展」。
4時間、はたまた5時間待ちになるというほどの、あまりにも人気すぎる展覧会。
このような展覧会の客数の偏りに、なにか違和感を感じるのだ。
並ぶのが嫌で見てもいないのに、ものを申そうとする人間の戯れ言と思って聞いて欲しいんだけども。

他人が設定した「価値」に依存していないか?

「若冲展」はメディアが相当に大きく取り上げていたこともあって、たいへんな注目を集めていた。
これらの宣伝や、行列の状況などを見て、どのような印象を持つだろう。

「これほど宣伝される展覧会なのだから、素晴らしいに違いない」
「あんなにたくさんの人が見に行っているから、私も見に行かないといけない気がする」
このような考えは、ちょっと注意が必要かもしれない。

なぜかというと、外からの要因でしかないから。
「宣伝されている」「人気がある」=「展覧会や作品の価値が高いのだ」、という判断をしてしまうと、自分自身の美に対する感覚が鈍ってしまう危険性がある。

そして見終わったあと、ほんとうに心から満足していなくても、「○時間も並んだのだから、素晴らしい展覧会のはずだったのだ」と飲み込んでしまうなら、それはもっと良くないこと。

価値のある作品を鑑賞することがステータスになっていないか?

さっきの内容と近いことなのだけど、この展覧会を見に行くことで人からどう思われるかを基準にすることも、往々にしてあるように思う。

「あの大人気の展覧会を、何時間も我慢して並んで、直接見ました」というのをステータスとして若冲展を消費してしまうのは、なんとももったいない話だろう。
最初はそれがきっかけとしても、ほんとうに素晴らしい体験だったと思えるならいいのだけど、はたしてあれほどの人数でそう思えた人はどのくらいだろう…
意地の悪い邪推かもね。

ただ、展覧会にかぎらず、音楽や文学でも「これを良いと思える自分は芸術をわかっている」というような思考は、結局のところ、他人の方を向いてしまっているのではないだろうか。

わたしは、芸術は自分の思考や感覚と向き合うものだと思っている。

ひとりの「感覚」と「人格」は別のものであることを忘れないようにしよう

そして、このように「他人によって設定された価値」に大きく左右される原因のひとつとして、感覚と人格を一緒くたに評価しようとする風潮にあると思う。

たとえば、「この作品をわからないあの人は馬鹿だ」というようなことば。
ここでの「作品をわからない」は、「あの人」の感覚への批評であって、それ以上ではない。
だけどそれに続く「馬鹿だ」は、その人格にまで干渉していることばだ。
これは破綻しており、また自分と他人の違いを受け入れられないための、単なる否定のことばである。
だけどこれに似たものが往々にして「批評」として横行するのが見受けられるように思う。
だからもし、そんな言葉を投げかけられてしまったら、否定のノイズを取り除き、正しい批評があるならそれを抽出できるようにしたい。

他には「私はその作品は好きじゃないんです」に対する、「じゃああなたと私は合いませんね」という返し。
ただその作品を好きになれないという感覚ひとつが、人対人のかかわり方まで関係するというのは、ちょっと飛躍しすぎではないだろうか。

わたし自身も、人の「感覚」と「人格」をイコールにしないように気をつけたいと思うよ。

まとめ

共通しているのは、他人と自分を分けること。
ちょっと考えるだけでいい。
自信をもって自分の素晴らしいと思うものを見出し、そしてもっと色々な展覧会や演奏会などにも、人々が行くようになったらいいんだ。

もっと個々に生きよう。